昨年秋、部数限定で発行され好評を博したZINE「秋の文化芸術週間2020 ケリー・ライカート監督特集参考書」(編=出町座・映画チア部/刊=出町座)所収原稿をWEBサイト用に再掲!
秋の文化芸術週間2020
ケリー・ライカート監督特集参考書
リバー・オブ・グラス
Babe Come Down?
高速道路、もしくはバイパスを通って退屈でどうしようもない町を抜け出す。それは地方の小さな町で育った僕にとってずっと憧れ続けた瞬間だ。あの道の向こうにだって同じように退屈な町があるだけだ。そんなこととっくに気づいているからこそ、あのシーンは完璧に僕たちの心を打ち抜くラストになる。真っ直ぐな一本道をかっ飛ばすわけでもなく、車は渋滞につかまりノロノロと冴えない。そしてそんなエンディングで「Trav'lin' Light」のあとに流れるのは誰からも忘れられたバンドの誰からも忘れられた曲だ。僕はそのイントロが終わってしばらくしてからその曲がSammyというバンドの「Evergladed」という曲だということに気づいて、この映画のことが何段階もさらに好きになった。完全に僕の映画だ、と思えたのだった。
ろくに授業にも出席しなくなり、毎日のように大学の図書館にある映画を片っ端から観ていたあの頃、僕が夢中になっていた音楽が90年代のUSインディだった。Daniel JohnstonにYo La Tengo、Eels、Smathing PumpkinsにPavement。完璧じゃない音楽にしかない魔法がそこにはあって、完璧とは程遠いような生活のなかで、それは本当に「自分の」音楽だと思えた。そんな音楽はときどき、毎日のように観ていた映画の中にも登場した。『KIDS/キッズ』や『JUNO/ジュノ』や『かいじゅうたちのいるところ』に『ウォールフラワー』、そしてそのなかでも特に印象的だったのがハル・ハートリー監督の作品たちだ。『シンプルメン』のSonic Youth、『愛・アマチュア』や『ブック・オブ・ライフ』のYo La Tengo。僕が好きになる映画は大抵主人公が退屈していた。そしてそんな映画にはこんな音楽がぴったりだった。当時、レコード屋のセールの棚には90年代のそんなバンドのCDがたくさん埋もれていた。Sammyのアルバムはそのなかでも誰の手も届かないような奥深くに埋もれていて、ガイド本にも絶対に載らないような忘れられた存在だった。僕がSammyのアルバムを手にとったのはたしか元田中にあるレコード屋さんで、値札に書かれた「Pavementのような……」という謳い文句に釣られてなんの気になしに買ったんだと思う。多分300円とかそんなもんだった。もしかしたらもっと安かったのかもしれない。案外いいアルバムだなと思ったし、たまに聴き返したりもしていたけれど、特にめちゃくちゃ好きというわけではないような、そんなCDだった。久しぶりにCD棚からひっぱり出した(よく2回の引っ越しに耐えてまだ手元にあったなと思った)そのアルバムはなんだかそれまでとちがって急に大事なものに見えて、なんだかそんな自分が浅はかだな、と思ったけれど、そうやって特別なものがどんどん増えていくのは僕にとって大切なことでもある。
90年代のインディ・ミュージックと映画の関係。それはジム・ジャームッシュ以降の、これなら自分にもできるかもしれない、というインディペンデントの流れが同時代の音楽シーンともリンクしていた、ということなのだと思う。Daniel JohnstonもPavementもパンクとはまた違った形で、これならできるかも、と多くの人々を駆り立てた音楽でもあったのだ。多分Sammyのふたりもそうやってギターを手にしたはずだ。ライカート監督もそうやって映画を撮り始めたひとりなのかもしれない。少しロマンチックすぎるかもしれないけれど、ついそんなことを考えてしまうのだった。ちなみに『リバー・オブ・グラス』の次の作品となる『オールド・ジョイ』では、Yo La Tengoがサウンドトラックを務めていて、12年の年月が経っても90年代はじめの音楽と映画の関係が変わらずにあることを僕はとても嬉しく思う。
高速道路。ざらついた画面、そして暗転。直線的なギターとわかりやすく「サマー・ベイブ」なよれたドラム。ここには僕が憧れたすべてがあるような、ついついそんな気がしてしまうのだった。
秋の文化芸術週間2020
ケリー・ライカート監督特集参考書
リバー・オブ・グラス
Paint It, Blue
『リバー・オブ・グラス』を初めて観た日、私はとにかくイライラしていた。何年もかけて手入れした庭を、無許可で刈られそうになっていたからだ。「まさか勝手に刈ろうとしているんですか?」。恐る恐る尋ねると、相手は「ああ、申し訳ありません。それで……」と、すぐに話題を逸らそうとする。「この庭は大切なので、刈られたら悲しいんです」。わざわざ口にすると、ますます自分が無力な気がした。
日々の暮らしにはいつも青色が差し込まれている。虚しさ、悲しさ、無力さ、退屈、混乱、不安。そうした感情が微塵も存在しない時間は、人生の中にどのくらいあるのだろう。
『リバー・オブ・グラス』の主人公2人は、水色の服を着て出会う。わびしい日々を抜け出せたかもしれないバーで、一度オレンジに照らされたコージーとリー。しかし2人はその後、またしても水色のプールに入り、水色のベッドに寝転んでしまう。銃を手にしても、モーテルに篭っても、拭い去れないその色。
始めは赤い車を乗り回していたコージーが、徐々に苛立つのがわかる。いつから自分は水色なのか。なんで素朴なゲートすらぶち破れず、つまらない土地に居座ろうとしているのか。セックスする気にならないのか。過ぎ去る列車の風でしか揺れない命なのか、私は。
誰にも気にされることがないのに無駄に長い自分の人生に気づいて、どんどん行き詰まっていく。まさにそんな心持ちだった私は、あまりにうまく感情移入が出来るので、前をゆくコージーの姿を見つめるのが苦しくなっていった。しかしこの映画は、そんな容易い同情のために撮られているのではない。
物語の最終盤、水色の服を着たままで、コージーが下した決断。その嘘のない一瞬一瞬に目眩がした。ただ悲しみの衣服を脱ぎ捨てて遠くに逃げれば良い訳じゃない。惨めさを引き受けて走るのだ、それでこそ本当の旅が出来るのだと訴えるエンドロールが、どくどくと身体になだれ込む。
心に青色が滲んだら、それを出来るだけ早く掻き消すことが安定への道だと思っていた。しかし『リバー・オブ・グラス』はむしろブルーと対峙し続けることで、居心地の良さ(=cozy)の輪郭を確かめていた。悔しいよ、やるせないよ、もう疲れてるよ。そういう気持ちひとつひとつを積み込んだ青いマリブカー。そのハンドルは自分にしか握れないのだと。
拭い去れないのなら、きつく手を取り合って。私はとにかくイライラしたままで、未来に燃えていた。
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ケリー・ライカート監督特集参考書
リバー・オブ・グラス
細やかで残酷なまなざし
ケリー・ライカートの映画は残酷だ。ここでいう残酷とは、肉体への暴力という意味での「残酷」ではない。むしろ映像は淡々としている。しかし、それゆえに恐ろしい。彼女の作品では、行き詰まった状況から逃れようとする人々が多く描かれる。このような人々は、現実世界に存在しているのと同じような出来事に悩まされている。中には、女性であるからという理由で、映画業界でより多くの苦労を強いられることになったライカート自身の経験が反映されているものもあるだろう。とにかく、映画の登場人物たちは現状を打破しようと必死にもがくのだが、結局上映が終わるまでには、努力が身を結ぶことはない。それでも、主人公たちが社会の仕組みや周囲の人々の不条理に触れ、時には抵抗し、時には諦める様子を、私は苦しい気持ちで見守らなくてはならないのだ。
『リバー・オブ・グラス』のコージーもまた、このような登場人物の一人だ。彼女は生まれ育った田舎町で、それほど愛していない夫と子供たちと暮らしている。もしもコージーがニューヨークに生まれていたら?男性に生まれていたら?人生はどうなっていたのだろう。やろうと思えば何にでもなれると綺麗事を言うのは簡単だが、そのチャレンジの過程には、現在の社会においては確実に、生まれというハンデが存在する。だからこそ彼女は、娘も自分と同じような人生を歩むのではないかと心配するし、頻繁に今とは違う人生を妄想して現実から逃避するのである。
それでも、どうしようもない人生から抜け出すチャンスが、歪んだ形ではあるが、やってくる。殺人を犯したと勘違いし、出会ったばかりのリーと逃避行を試みるコージーは、いたって真剣だ。もちろん人を殺したと思っているのだから心中穏やかでないのだが、犯罪者であったとしても、特別な存在になれたことには興奮したはずだ。アメリカの田舎でステレオタイプの人生を歩み死んでいく凡人から脱して、何か違う者になることができたのだから。
しかし、実際には殺人は起きていないし、コージーとリーの家族も、「こども(という年齢ではないのだが)の家出だ」といった具合で、事を深刻に捉えているとは言い難い。コージーは特別な者にはなれていなかったのだ。このギャップがまた、観ていておかしくも苦しいところである。ゴキブリを撃った銃声で犯罪者だと感づかれたかと思いきや、モーテルの料金取り立てが来ただけだったり、25セントの通行料すら払えなくてゲートを強行突破しようとするも、失敗して警官に軽くたしなめられたりと、「真剣な二人と呑気な周囲」を比較したコメディタッチなシーンがこれでもかというくらい続いていく。これを見守る側の気持ちとしては、シニカルなユーモアに少し微笑みはするものの、それより何より「そろそろ追われていないことに気づいたら?」「もう少しうまく、計画的に動けないかね?」という苛立ちが勝ってしまうのである。しかしそこで、登場人物の無計画さや行動の下手さにイライラしつつも、彼女/彼らが好きでこんな状況になっているわけではないと思うと、どうしようもないやるせなさに襲われもするのだ。
最終的にコージーはリーを排除し(リーを実際に殺したのかどうかは微妙なところだ)一人でハイウェイの向こう側を目指す。この終わりから、明るい未来を予感することも可能だ。しかし、彼女は輝かしい未来を手に入れられるのだろうか。例えば、同監督作品の『ウェンディ&ルーシー』におけるウェンディの姿は、新天地へ赴くことを決意したコージーが、旅の途中で今までとは違った苦しみを味わっている姿と捉えることもできるのではないだろうか…。こういうところもまたライカート作品の残酷さなのだ。劇中では試みに失敗した主人公が、最後に僅かな希望を信じて再出発する。しかしその再出発も、監督の他作品で描かれる物語によって、そうそう上手くはいかないことが示唆されているのである。
ケリー・ライカートの現実を捉える観察眼とそれを映し出すための映像作りは非常に丁寧で詳細で、素晴らしいものだ。しかしそれは、丁寧で詳細だからこそ、残酷なのである。何度も観たい作品かと言われれば、今の私にはこんなにも辛い思いをする映画体験を繰り返す元気はありそうにない。それでも、一度観ただけで忘れられないものになり、私の心に染みついているのである。
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ケリー・ライカート監督特集参考書
オールド・ジョイ
『オールド・ジョイ』わだかまりを解くための9の覚書
1.旧歓。旧歓を暖める。久しく絶えていた人との間の昔の楽しみや友情を元のようにする。うん。
2.ボーダーライン上にいるキャラクターは主人公になりやすいと映画学校のシナリオ講座で聞いた。妊娠中の妻を置き去りにしてマークは温泉旅行に出かける。差し迫った父性のプレッシャーから逃れるようにして。
3.カート。服がヨレヨレ、ちょっとハゲている。車のリアガラスも割れまくり。友だちのレコード屋は潰れて今ではスムージー屋だと聞いて「時代の終わりだ」とつぶやく。カート役のウィル・オールダムはアメリカではそこそこ有名なフォークシンガーらしい。男ふたりのロードムービーといえばモンテ・ヘルマン『断絶』、ジェームス・テイラーとデニス・ウィルソンと、あちらも主演ふたりが音楽家だ。
4.地図を差して、いまこの辺じゃない?と指をくるくる回すカートに、マークは呆れている。現在地が分からない、見失った目的地。ロードムービーはいつだって人生の比喩だ。ジャック・タチ『トラフィック』は渋滞や事故などトラブル続きで一向に目的地にたどり着かない悪夢のような旅。『断絶』は愛車を爆速で飛ばす”カーキチ(車気狂いのこと)”たちの人生の停滞について。
5.友だちや恋人と旅行に出かけて、かえって仲が悪くなったという話をたまに聞く。予定通りにコトが運ばずイライラする人もいれば、そもそも予定なんて立てたくない人もいる。想定外の野宿を楽しもうとするカートに対し、テンションガタ落ちのマーク。てか最高の温泉があるんだと誘われた結果野宿は多少イラついても仕方ない。「君との間に壁を感じる……」とカート泣く。でも壁を作ってるのはそんなこと言い出すカート自身では?とも思う。
6.野宿開けの朝。おのおのテントや寝袋を片付ける。こういうときまったく会話する気になれないよね。気だるいムード。ふたりが無言ですれ違うカットに大笑。
7.妻と電話するマークの背中を見つめる、カートのクローズアップ。なんだこれ……感情がものすごい伝わってくる。なんの感情かは言い表せない。やるせなさ? 反省? 逆に、怒り? どれか一つを当てはめたとたん陳腐になる。無言がもっとも雄弁。
8.水に触れると考えが捗る。神道には禊という行為があるから日本人としては身近だけど、アメリカ人にもそういう感覚はあるのだろうか。
9.瞑想的な時間が流れる。カートが語る小話に、マークが微笑んだとき、あ、何かが共有された、と思った。ふたりは想像の世界の上に同じ光景をみた。ふたりの間の壁がゆっくりと溶け出す。身に纏ったものを脱ぎ、裸となった肉体に、もはや違いは見いだせない。ただ一点、マークの左手に光る結婚指輪をのぞいて。急に肩を揉まれ、え? なに? と戸惑ったマークだけど、力が抜けて湯の中にスーッと沈んでいくあの左手が、この旅のささやかなクライマックスだ。わだかまりが解けるように。
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ケリー・ライカート監督特集参考書
オールド・ジョイ
男ふたりと犬がキャンプにいき、妻が家に取り残される話
気分に曇り空がまとわりついたような時間はできれば過ごしたくはないけれど、生活ってそんな日の方が多い。というか、そんな日ばかりだ。ときどき光が訪れるし、楽しいことは楽しいけれど、本当はずっとため息ばかりついて、大丈夫じゃないと叫んでいたい。
ケリー・ライカート監督『オールド・ジョイ』(2006年/USA/76分)ではマークとカート、ふたりの男性と一匹の犬ルーシーがキャンプに出かける。山のなかにある温泉を目指してドライブをする。道中はぎこちない。カートが道を間違えたために、マークは身重の妻のターニャが待つ家に帰れず浮かない顔をする。冒頭、マークとターニャも気まずそうにしている。妊娠中の妻を置いてキャンプに出かけんなよマジでっていう呆れに尽きるのだが、ターニャはそれ以外にも彼女なりに夫の「男同士」の関係に思うところがあるのかもしれない。私たちは無闇に関係に立ち入れない。観ている側は推測するしかない。けれど推測し過ぎると何かを損なってしまう。関係に立ち入れないのは、スクリーンに映る本人たちだってそうだ。
マークとターニャのあいだにも、マークとカートのあいだにも、それぞれ立ち入れない部分がある。言葉にすることで失われてしまうようなその部分を、何気なくかつ決定的な表情が、そして往々にして天候や自然が担っている。静かな時間が登場人物やカメラの動きひとつひとつを符号にさせ、「ああいま自分は映画を観ている」と強く思わされる。映っているものが登場人物の沈黙や饒舌を補完し、画面全体が気分になっている。だが注目すべきは、それが一体だれにとっての気分なのかということだ。
目立つことが起きるわけではない。男ふたりと犬がキャンプにいって帰ってくるだけの話だ。そしてこの映画は、妻が家に取り残されている話でもあるのだ。
マークとカートが最終的にはキャンプを楽しみ、画面と音楽が爽やかな分だけ「キャンプにいって帰ってくる」ことができる男たちのえげつなさが際立ち、彼らのあいだにある嫉妬や愛情もまた鮮明に現れてくる。ラストシーンに到るとそこには何かがこれからはじまるような気配が充溢する。私たちの日常だってそうだろう。いつだって何かがはじまっているしこれからはじまろうとしていて、そこを読み解こうとするとき、『オールド・ジョイ』のように表情が、自然が、時間が、曇り空が主張をはじめる。それはどこまでも、あなたにとってのものなのだ。
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ケリー・ライカート監督特集参考書
オールド・ジョイ
新たな喜びを探しに
多くのロードムーヴィーが何かしらの問題を孕んで進んでいくように、本作も主人公マークと妻ターニャの不穏な会話から始まる。旧友カートからマークへのキャンプの誘いの電話に、明らかに不満げな表情を浮かべるターニャ。だが、映画はその会話に解決の糸口を示さぬままに次の場面へと繋がれる。
責任から逃れ自由を求めるカートと妻の出産を目前に控えるマーク。異なる二人の旅路を描く本作は、「移動」の連続である。彼らが目的地に向かって、車や徒歩で「移動」すれば、映画は、同義的にキャメラは、当然彼ら二人を追っていく。繰り返される車窓風景のショットは、目的地へと向かう彼らの行く手を示すと同時に、そこに存在する風景や時間が過ぎ去っていく様子を映し出す。時の流れを視覚化したようなそれらのショットは、狭い車内にいる彼らがすぐに過去へと変化していく時間の移ろいの中で、今この瞬間に身を投じているということを強調する。「移動」とそれに呼応する音楽。心地よいリズムで刻まれていくこれらのショット群とは異なり、道行く二人はどこかぎこちない。噛み合わない会話や時折鳴るターニャからの電話、さらには目的地へと向かうための標識すら見失い迷ってしまう。しかし時間が止まることはないように、彼らは「移動」を続ける。
”悲しみは使い古した喜びなのよ” 目的地に到着した後、二人の会話に出てくる台詞である。カートは夢に出てきた女性のその台詞を、湯船に浸かるマークに語りかけ、そしてマークの肩に触れる。結婚や出産という責任から一時的にでも逃れることを隠喩しているのか、指にはめられた結婚指輪が湯に隠れるようにゆっくりと手が浴槽へと沈んでいく。閉じられた瞳の奥でマークは何を思うのだろうか。
帰路は、恐ろしいほど静かだ。往路とはうって変わった会話のない車内は我々観客に、それまで過ぎ去った風景と同様、彼らにとってこの旅がすでに過去であることを悟らせる。もはやこれもまた使い古した喜びなのだ。これから戻るそれぞれの生活は、以前と同様に解決の糸口が見つからない諸問題を抱えている。それでもなお、新たな喜びを見つけるための歩みを続ける彼らに、我々は涙し、また希望を見出すのだ。
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ケリー・ライカート監督特集参考書
オールド・ジョイ
「ケリー・ライカート監督に聞く」
2020年9月27日、イメージフォーラム・フェスティバルでの『オールド・ジョイ』上映後に行われたオンライン・ティーチインの採録をお届けします。ライカート監督が数日前にオレゴンで起こった大規模な山火事の影響を受けて避難していた最中、日本の観客とのはじめての交流の時間となりました。
※「秋の文化芸術週間2020 ケリー・ライカート監督特集参考書」(発行:出町座)からの再掲。
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降矢 俳優の演出についてお聞かせください。『オールド・ジョイ』公開当時のインタビューでウィル・オールダムのように演技経験の浅い人物とダニエル・ロンドンのような経験豊富な役者と一緒に仕事をする上での課題を問われた際に、ウィル・オールダムとは知り合いなので容易かったと答えてらっしゃいました。ライカート監督に重要なのは俳優のキャリアではなく、俳優自身をよく知ることであるように思いました。それはより多くの俳優たちと付き合うようになった今でも変わりはないでしょうか?俳優と仕事をする上で、あえて言えば、なにが一番重要だとお考えでしょうか?
ライカート 学んだのは俳優たちは皆違うということです。だからルールはありません。例えば技術的に優れた俳優は素晴しいのですが、それに慣れてしまうと俳優の技術に甘えてしまうので、技術を持っていない方に出演していただくときに、きつくなってしまいます。でも、いずれにせよ人とのコラボレーションですよね、俳優との仕事というのは。だからその時その時に応じて、一番ベストな仕事の仕方を互いに見つけていくという感じです。俳優によってそれぞれ求めるものも違って、すごく厳格にこれをやってほしいという方もいれば、役柄のバックグラウンドを知りたいという方もいる。細かく全部話したい方もいれば、全然話したくないという方もいるので、毎回違うということを学びました。人柄が素敵な人であるというのはやはり重要かもしれませんね。
降矢 音楽関連のご質問です。今回は出演のウィル・オールダムさんが音楽を担当するのではなく、ヨ・ラ・テンゴを起用しています。ヨ・ラ・テンゴを起用する経緯や彼らとの共同作業はどのようなものだったのでしょう。
ライカート 実はウィルは今回は音楽をやりたくないと言っていたんです。というのは、演じているキャラクターはウィルではないので距離を置きたかっということがあったようです。ヨ・ラ・テンゴは実は昔からの友達だったんです。彼らの練習している場所に行って、シーンに合わせて色々演奏してもらったりしてつくっていきました。私たち皆すごく個性が強いんですね。だからちょっと大変ではあったけれども、本当に素敵な友人たちだし、『オールド・ジョイ』のときは決まりきった形ではなく、彼らと共に柔軟に作曲をすることができました。
降矢 素晴らしいロケーションの温泉(Bagby hot springs)のシーンについてお聞かせください。最後のクレジットで、この温泉では裸になるのも飲酒するのも禁止です(Bagby hot springs does not allow nudity or alcohol.)と出てきます。それをあえて破っているのはなぜでしょう?それらを破ることによって、温泉のシーンは非常に美しくセクシャルに撮られているような雰囲気が出ています。
ライカート 実際にあの場所では、みんな脱いだりお酒を飲んだりしちゃうんですね(笑)。まず彼らが森のなかに進むうちに心がオープンになっていって、自分の纏っているものを脱いでいく。そして温泉で裸になる。温泉なので実際に行った人は脱いでいたと思うのだけど、お酒は飲んでいたかしら?まあビールは飲んでいたと思うけど。実際のところ、温泉ではみんなビール以上の強いお酒を飲んでいるので、多分そういうことが多かったから二年程前に閉鎖されたのかもしれません。ただ、映画的なアイデアとしては、自然の中にどんどん歩を進めていく中、あの瞬間やっと二人の間の緊張がなくなり、お互いに対してリラックスできた瞬間を表現しています。
降矢 ケリーさんの映画では、いつも迷子になったり、その場から抜け出そうとしても結局は抜け出せない、というような人物が多く描かれていると思います。『オールド・ジョイ』も温泉に行くまでの道のりで迷子になりますし、最後に町に戻ってきてからも、ウィル・オールダムさん演じるカートは行く当てもなさそうにふらつきながら映画が終わります。そういう人やモチーフを繰り返し描くということや、ケリーさん自身がそういう人物たちに惹かれる理由というのがあれば教えてください。
ライカート そうですね、たしかにそういうところはあって、『オールド・ジョイ』もジョナサン・レイモンドの短編が元になっているんですが、ご存じのようにジョナサンと私は何度も仕事をしてきています。二人とも、権力、力を持たぬ者に惹かれていると思うんです。『オールド・ジョイ』は随分前の話ですが、ちょうどブッシュ政権時代でもありました。その時はなにか、持たざる者を排除するような空気があって、それが映画にも反映されています。私のすべての作品では、自分ひとりで道を切り拓けない人がいた場合、私たちは彼らを助けるべきなのか、それとも、誰もが自分のことだけを考えてトップを目指すような世界なのか、他人を蹴落とすのではなく共存していくのか、あるいは自分ひとりでは道を切り拓けない人々を助ける義務があるのか。ジョナサンの作品にはこうした問いかけが常にあり、私はそこに惹かれるんです。
山下 こんにちは。僕の方からも質問をさせてください。一つ聞いてみたいのは、最初に『オールド・ジョイ』を観た時に、男性性の描かれ方というのが面白いと思いました。男同士の友情というのが柔らかい形で描かれていて、そこにフレッシュな印象を受けました。そこで新作の『First Cow』、今年のベルリン国際映画祭のコンペティションで上映された作品ですが、こちらもある種男同士の友情みたいなものが柔らかいユーモラスな形で描かれていて、そこに『オールド・ジョイ』の変奏みたいなものを感じたんですね。それで、なぜこのようなテーマに帰ってきたのかというのが気になっていて、『オールド・ジョイ』で描き足りなかったもの、付け加えたかったものがあるのか、と思ったのですが。先ほどのお話だとトランプ政権のことも関係あったりするのかと思ったのですが、どうなのでしょうか。
ライカート その2作品は、似てはいないかな、というのが正直なところなんです。『First Cow』はジョナサン・レイモンドの初小説“The Harf-Life”がベースになっています。私がはじめて読んだ彼の小説でした。以前からこの作品を元に映画を作りたかったのですが、40年も過ぎてしまいました。この小説自体、かなりスケールが大きいので映画化はなかなか実現しませんでした。実際、小説よりも少し小さい規模で作りました。ちなみに小説には牛は出てきません。もちろん作品の核にあるのは、先ほどおっしゃったような男性同士の友情になります。ですが、森の中に男性がいて友情が描かれているということ以外は、キャラクターも違いますし、テーマ的に似ているのはそこまでかと思います。つまり、『オールド・ジョイ』ではお互いのことを良く知っている旧友同士の友情が終わらんとする瞬間を描いています。『First Cow』はそもそも時代設定も違って1820年の話です。見知らぬ者同士が必要に駆られて力を合わせなければならなくなり、そこで友情が芽生えるという物語ですしね。
山下 ありがとうございます。もう一点、聞いておきたいのが、ケリーさんの作品を観ていると、クレジットもそうですが、作品のショットなんかもそうなんですが、アメリカの実験映画作家との交流だったり、影響だったり、そういったものが見て取れるように思います。例えば『First Cow』はピーター・ハットンというアメリカの風景映画の巨匠に捧げられています。イメージフォーラムも2年前に彼の追悼上映をやったのですが、ケリーさんとハットンさんとの交流ですとか、あるいは『ウェンディ&ルーシー』のDVD特典にペギー・アーウィッシュという作家の作品が収録されていたりするんですが、そのあたりの交流、アヴァンギャルドの作家との関わりや影響ということについてお話をうかがえますか。
ライカート 私はバード大学で映画を教えているんですが、ここが元々すごくアヴァンギャルドな場所なんです。今、バード大学のフィルムプログラムで教鞭をとっているんですが、そこに私が招聘された理由というのが、この大学はアヴァンギャルドな映画作りがメインなので、いわゆるストーリー性のある映画を作る人を一人入れたいと、そういうことだったそうです。その空間にずっと身を置いているので、アヴァンギャルド映画に自分が近い位置にいると言えると思います。元々すごくこういう仕事をしたかったんですね。ペギー・アーウィッシュや、批評を書くエド・ホルター、そしてピーター・ハットンや、ジャック・ボスといった人々の作品が大好きだったし、彼らの近くで仕事がしたい、ぜひバードで教鞭をとりたいと感じ、それが叶った形でした。ピーター・ハットンは亡くなってしまいましたが、私のメンターでもありました。彼は風景を撮っていた人ですが、自分とアプローチの違う映画作家に作品を観てもらえるというのが、やはり素晴らしいことだと思うんです。いわゆるストーリーありきで作っていない人からは、私がまったく予想だにしないような反応が返ってきたりするので、刺激的なんですよ。ペギーや他の方もそうです。彼らとの交流は自分にとってすごく価値があるものです。また、学生たちにとってもとても良いことだと思います。ストーリーを考える前にいろいろな映画の作り方に触れることができるから。そうではなくて、先にストーリーありきの作品づくりを学んでしまうと、そこから抜け出すのが大変になってしまう。このアヴァンギャルドに近いところにいる今の状態はとても好きですし、作家である他の教師たちもとても好きです。ピーターは亡くなってしまって本当に残念です。
山下 ありがとうございます。『First Cow』でのピーター・ハットンに捧げるというファーストショットに本当に感動しました。僕の大好きな作家なので。
ライカート ありがとうございます。オープニングショットはピーター・ハットンのオマージュなので『First Cow』を皆さんがご覧になる機会があれば、ぜひチェックしてみてください。
観客からのQ &A
観客A 『オールド・ジョイ』のラジオシーンから流れる民主党と共和党の争いというのは元々脚本にあったことなのでしょうか?
ライカート 元々脚本にはなかったです。ジョナサン(レイモンド)の原作ではカートとマークはもっと状況が似ているところがありました。実はマークも結婚しているという設定はなく、あとで付け加えた部分です。『オールド・ジョイ』の車中で流れる番組はエア・アメリカという局のものでした。アメリカでは右派のラジオ番組はたくさんありますが、左派の番組はほとんどありません。ごく限られた短期間存在したのがこの番組だったので、それが使用されています。左派の人は左派同士で口論してしまう、とよく言われます。このシーンはそれが現れていると思います。
観客B 『オールド・ジョイ』のマッサージのシーンでのカートの潜在的な思いはどういったものだったと考えていますか?あのシーンからその後の展開が変わっていく印象を受けました。
ライカート 当時の私たちの考えとしては、西部劇の反対というようなイメージでした。西部劇だと男性の力強さ、どちらが強いのかみたいなものが描かれたりします。あの時代のオレゴンのポートランドという場所でも、男性たちは誰が一番オープンでいられるかというのを競っているようなところがあったと思います。「ここまでやってもお前は心地よくいられるのか?」といったような。ある意味そのオープンさを示すバトルのようなものがあのシーンでは行われていると考えています。カートはマークに自分を信頼して欲しいという気持ちも持っていますが、同時にパワープレイ的なところがあると私は思っています。どちらかというと、分かりやすく官能的な瞬間というよりもむしろマウントをとっているような瞬間だと思います。マークは実は全然心地よく感じていません。私たちがだんだんオープンになってきている現代の視点でお話しするのはおかしいかもしれないですが、この時代は特に男性がいかにオープンでいられるかを競い合っているような時代でもありました。
観客C ケリーさんの映画で印象的なのは、沈黙しているシーンです。登場人物たちの感情がとらえ難い感じで動いていて、心の動きや声がまるで聞こえてくるかのように感じます。今回の『オールド・ジョイ』でも、スクリーンで見ていたのでクローズアップの瞬間的な表情から言葉にならない感情が伝わってきました。沈黙しているシーンと言葉の力のバランスはどのようにお考えでしょうか?
ライカート 私たちが作品を作るときにやろうとしていることは、セリフではなく、セリフの周りで起きていることを観客に伝えることです。あるいは観客に、そこに気づいてほしいと思っているのかもしれません。もちろん沈黙のシーンを作るのはとても難しいです。それはごまかしの効かない、そのままの姿が隠れようもなく出てしまうものです。だからかもしれませんが、『オールド・ジョイ』は今では絶対に使われない量の音楽が使用されています。『オールド・ジョイ』は果たして言葉にしていないテンションが観客に伝わるんだろうか?と思いながら作っていました。それをちょっとしたジェスチャーやボディランゲージであったり、森の中のような自然界の音、そういったものを使って表現していく。沈黙というのは心を落ち着かせてくれるものでもあるけれど、同時にテンションを作るものでもある。使い方次第、というところがあると思います。ですから、シーンによります。森には音がたくさんあるので色々できますが、『ミークス・カットオフ』のような砂漠だと音がほとんどないので、それはそれで苦労があります。心の中の音と表面的な自然の音(double sounds scape)は、キャラクターが自分の思っていることを伝えられない、あるいは自分の感情が分からなくて言葉にできていない、そういった彼らの内面を伝えるときに使いわけていると感じています。
山下 ありがとうございました。ケリーさんは実はポートランドに住まわれていて、例の山火事の影響に見舞われ、今回ご出席頂けるかどうかのせめぎあいだったんですけども、今日はそんな中、貴重な時間を割いていただきました。ケリーさん、本当にありがとうございました。
(拍手)
ライカート 皆さん、今日は本当に私の作品を観に来てくださってありがとうございます。ここから見てもイメージフォーラムさんは素敵な劇場ですね。皆さん健康にはしっかり気をつけてください。
(拍手)
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ケリー・ライカート監督特集参考書
ミークス・カットオフ
ふきげんに迷子
大学1年生のころに『ウェンディ&ルーシー』を見た。たしかロードムービーが見たくて、リンチの『ストレイト・ストーリー』と一緒に借りた。後者はいたく感激したが、前者は正直なところ詳細な所感を覚えていなかったので、これをきっかけに見直そうと思ってSHIBUYA TSUTAYAへ走ったけど、在庫なし。その足でさらに2軒回ったが、手ぶらで帰った。見るなってことだろうか。2時間散歩できた。
まあ仕方がないので、参照用に送ってもらった『リバー・オブ・グラス』と『オールド・ジョイ』を先に見る。どちらもべらぼうに面白い! ケリー・ライカート、大好きだ。よしよしわたしはポール・ダノのファンだし、『ミークス・カットオフ』もきっと面白いに違いないと思って見始めたら、なんだかストイックな荒野からはじまって、そのあともずうっと荒野。どうやらこいつら迷子らしい。絶望。あまりのミニマルさに、もしかしてこれ、ハズレ引いたか?とおもってしまったが、終わったら、うん、ちゃんと面白い。ケリー・ライカートにハズレなし!
1845年のオレゴン、西部開拓時代の夜は暗い。エジソンが生まれる2年前だ。らんらんとひかる月か、火明かりしかない。パソコンの画面で見たら、ほぼ真っ暗だろう。ケリー・ライカートは35ミリフィルムを用いて、その暗闇を効果的に映しだした。はっきりと見えないほうが雄弁なこともある。時代は、光の量で表れるものなのかもしれない。
そして『ミークス・カットオフ』は女性の立場の低さを顕著に描く。低いどころか、自ら「ウチらのこの働きっぷり、もはや黒人奴隷並みじゃん?」と言ってしまっている。進路を決める話し合いに参加ができない。選択権どころか発言権も与えられておらず、腕をさすりながら遠くから見守るだけ。男性たちのあてずっぽうな会話に聞き耳を立てて状況を想像するしかない。幼い息子ですらその会議に参加できているのに。男であれさえすれば良いのだと、これでもかというほど提示される印象的な光景だ。つらい。しかしこの映画、男性の視点で語られても面白いのではないだろうか。わたしが読みたい。逆にわたしも中年男性のバディムービー、語りたい。
わたしが西部開拓時代を生きたなら。水を求めるよりも、疲れてその場から一歩も動かないことを選び干からびるか、武勇伝をひけらかす馬鹿なミークに激昂しひっぱたいて撃たれるかで、わたしの生命終わっていた。いま、怠惰と抵抗が死に直結しないのは、マジで先人たちのおかげ。ありがとう。時代はめちゃくちゃ変わる。これからは、わたしがぐんぐん世界を良くしていくんだ。
秋の文化芸術週間2020
ケリー・ライカート監督特集参考書
ミークス・カットオフ
砂まみれはつらい、水が欲しい
冒頭、胸の高さほどもある深い川を、帆馬車を引いて着衣のまま進む一行。いったい何事だろう。女たちは足首までまとわりつく丈の長いドレスを着ており、ただでさえ歩きづらそうだ。うちひとりは身重である。すぐに、彼女たちが開拓民で、川は越えるべき障害物であるとともに、生き延びるための貴重な水源でもあったことがわかる。エミリーが言うように、もっと汲んでおくべきだったのだ。一行がはるか西部の新天地、ウィラメット渓谷を目指し、土地勘があると豪語するスティーブン・ミークについて砂漠を横断する旅を始めてから、すでに五週間が経過していた。この男は近道を知っているはずではなかったか? つのる疲労と不信感で皆が苛立ちを覚える中、肝心のミークは一向に意に介する様子もなく、調子のよいおしゃべりを続けている。フリンジジャケットの中に着込んだ赤いシャツが、乾ききった色彩の中で唯一目を惹く。この男はおしゃれだ。トークもうまいし、なんか油断ならない。ちなみにスティーブン・ミークとは、19世紀に実在した罠師である。当時彼に率いられた開拓民の多くが、不幸にも命を落としたらしい。
一行の命運を握るこの男が信用に足るのかどうか明かされぬまま、画面には終始緊張感が漂う。彼らはその後、危険な原住民のカイユース族とも遭遇するが、その男を捕らえることに成功し、ミークの反対を押し切って水場に案内させるため生かしておくことにする。しかし「水」というシンプルな単語すら共有できない、異文化圏に属する人間との意思疎通の難しさがここで可視化される。なにを考えているかわからない相手に抱く恐怖は最大まで膨れ上がり、新たなガイドとなったこの男に運命を託すことも、一行にとってはまた大きな賭けとなった。「貸しを作りたい」とたびたび彼を助けてやるエミリー。危険を顧みず行動する強い女の姿は、ケリー・ライカート監督が本作で最も描きたかったという、これまでの西部劇ではけして表現されてこなかったものだ。随所に登場する、聖書を朗読するシーンも印象に残った。生きるか死ぬかの不安に押しつぶされそうになった時、このように心のよすがにできるものが、はたして自分にはあるだろうか。
最後は「オーマイガー! ここで終わるの!?」と思わず叫んでしまった。絶望と希望とでぐちゃぐちゃになりながら、それでもわたしたちは前に進み、その先にある景色を自分で見に行ってみるしかないらしい。
秋の文化芸術週間2020
ケリー・ライカート監督特集参考書
ミークス・カットオフ
現代的西部劇・現代的フロンティアスピリット
ミークス・カット・オフとはかつてオレゴン・トレイル上に存在した分かれ道で、その案内人であったスティーブン・ミークにちなんで名付けられている。オレゴン・トレイルとは、西部開拓時代に開拓者が渡った主要な道の一つだ。ミークス・カット・オフは特に厳しい行程で、多くの開拓者が命を失ったという。
カットオフとは分かれ道という意味を持つ単語である。そして同時に、遮断と言う意味を持つ。ケリー・ライカート監督がこの現代に撮った西部劇は、多層な遮断への多層なフロンティアスピリットを映し出す我々への物語である。
1845年オレゴン・トレイルにて、ある開拓者たちの二週間で終わる予定だった道程は、五週間にまで及んでいた。このある種終末的な放浪はケリー・ライカート監督作品に共通するテーマかも知れない。
その旅は未知だらけの旅だった。その地域に詳しいと豪語し開拓者たちの道案内をするミークは、恐らく道を知らない。ミークが道を知っているのか知らないのか開拓者たちは正確に知らない。この強行軍を先導するのは常にミークを含む男たちだ。男たちは女たちに大した情報共有をしない。女たちは男たちの事情など知らされず、男の会議に耳をそばだてるしかない。一行は近辺に住むらしいカイユース族を恐れる。というのも彼らはどうやら酷く残虐であるらしいからだ。実際に捕縛した先住民は言葉が通じず文化を異にする。彼の意図することは一行には何も分からない。そんな彼に対して、特にミークは恐れをむき出しにし、彼を道程から早々に取り除こうとする。未知は恐れへと繋がり、遮断の根源となる。
しかしその未知に覗く少しの共感と、一握りの勇気が遮断を突き崩すことを可能にするはずだ。この世界の中で鈍く輝く銃口は、女性の勇気そのものとして自他の未知への恐れへNOを突きつける。世界がそうして少し変わる。
その末に画面に映し出される道程の先は美しく果てしない荒野だ。同じオレゴンを舞台として撮影された『カッコーの巣の上で』(1975)を明らかに用いながらも、意図するところはより現代的に拡張されている。男女、人種、etc。全くの未知に満ちた1845年のその荒野は、旧来の構造にNOを突きつけようとする現代社会の未来そのものなのだ。我々もまた開拓者なのだ。自分と異なる未知への挑戦の果てなど、その渦中にある我々にはまた全くの未知である。しかし夜間の会話に溢れたこの映画において、その荒野を暁の曇り空と共に送り出す様に、ケリー・ライカート監督の切な願いを感じ取った。
2020年、グッチーズ・フリースクール「秋の文化芸術週間2020」上映が行われた際、各地で企画されたトークイベントから選りすぐりの3本をピックアップして採録します!
藤野可織さんトークショー採録(聞き手:降矢聡)
TALK ABOUT
“RIVER OF GRASS”
大人の逃避行
藤野 小説家の藤野可織です。よろしくお願いします。
降矢 よろしくお願いします。さて『リバー・オブ・グラス』上映後のトークということで、まずは感想からお聞きしたいです。
藤野 ケリー・ライカート監督は『地獄の逃避行』(1973年/テレンス・マリック監督)がすごい好きなんですよね。私も大好きな映画です。『地獄の逃避行』っていうのはまだとても若い男の子と女の子が女の子のお父さんを殺して、二人で行く先々でさらに人を殺しながら逃げ延びていくっていう、とっても楽しい映画ですよね。
降矢 描かれる事件は恐ろしいものですけど(笑)。
藤野 でも『リバー・オブ・グラス』は全然違うんですよね。二人の男女が逃げていくっていう枠組みは一緒かもしれないけれども、こちらは子供じゃないですよね。二人ともいい大人だし、『地獄の逃避行』の方はシシー・スペイセクとマーティン・シーンで見た目の良い二人です。けど、こちらの二人はいわゆる美男美女かって言ったら別にそうではない。男の人の方、リーは途中で「もうすぐ30だから」って言ってはるの聞いて私耳を疑って。
降矢 (笑)
藤野 目を疑ったっていうか。私40歳なんですけど、とくに根拠はないんですけど同じぐらいやろてなんとなく思ってたので、かなり若いんやわこの人って衝撃を受けたんですけど、でもまあそれにしても大人と言える年齢で、女性のコージーの方も夫がいて子供も二人いる。
降矢 さっそく重要なポイントかもしれません。
藤野 コージーもリーも何かの才能があるわけでも、何をするわけではない。ただの大人の男性と女性が逃げていくっていう点において、すごく良いなと思ったんですよね。逃げ延びていくことができるのはもっと若い内だけのような気がするじゃないですか。それを魅力的に描くことができるのも、やっぱり若い内っていうのはすごく大きな要素だと思うんですけども、そうじゃないなっていう。それからもうひとつ、子供を捨てるっていうのはすごく大きなことであるはずなのに、本当にさらっと捨てていく。
降矢 本当にただ、フラっとバーに出かけるようにそのままって感じですもんね。
藤野 子どもを捨てることに対する説明のようなものも、最初の主人公のナレーションで「子供との間に絆が得られなかった」というだけで済ませてるのもとても良くて。「母性」っていうんですかね。そういうものは人間性とは関係ないと思っていて、それは運だと思うんですよ。子供かわいいと思えたらそれはとっても幸運だし、そのためのホルモンかなんかがあるんですよね、きっとね。分かんないですけど。みんなホルモンに騙されて生きてる。べつになにか科学的な裏付けがあって言ってるんじゃなくて、私が勝手に思ってるだけなんですけど(笑)。そのホルモン的なものが分泌されれば大変ラッキーだし、たまたまそれがなかったらもうこの社会では生きづらくなるし、説明を求められてしまう。ただそれだけのことなんじゃないかなって思うんです。
降矢 とても興味深いお話です。
『リバー・オブ・グラス』
© 1995 COZY PRODUCTIONS
不発の映画
藤野 もうひとつとても私が気に入っているのは、犯罪を犯そうとしても犯せないところですね。人殺しもできないし、多分この二人はセックスもしていない。ちょっと置き引きみたいなコンビニ強盗と洗濯物を盗むだけ。それに、二人でいてもどこにも行けてないんですよね。そういう不能感っていうんですかね。どこまでも行けてしまいそうな『地獄の逃避行』とはそこも全然違って、現実味があるなと思いました。あとすごく意外だったのが、コージーのお父さんのことが丁寧に描かれているんですよね。
降矢 あのなにかと落としがちなジャズドラマーの(笑)。
藤野 拳銃落としがちな(笑)。最初は、あのお父さんの物語なのかとすら思ったんですよ。ジャズがすごく使われているし、ある時点で妻を失って、それから娘も妻と同じぐらいの人生の段階に差し掛かった時に、やっぱり失っている。そういう男の人の話なのかなって。そういう風にして構成し直しても作れるような映画だなと思いました。
降矢 正におっしゃる通りだなと思うところがいっぱいありました。よくある映画だと基本的には男女が二人いれば、ラブストーリーの逃避行にはなりますが、不全感がこの映画は強いですよね。ピストルが出てくれば殺人とか犯罪者の話になるし、車が出てくれば遠くに行くはずなのに、全て出てくるけど、近場をぐるぐる回ってるだけ。映画的な物語になる寸前っていうか、なる要素たくさんあるのに決してならない。
藤野 どれも不発っていう。
降矢 それにさっきのホルモンの話じゃないですけど、子供がいる母親の描かれ方は、愛情を注ぐ、注がないの違いはあれど、子供との関係性は密になりそうなものですが、そもそも子供に対してとてもフラットですよね。たまたまホルモンが分泌されてないから、バーに行くように子供を捨てる。
藤野 そのことをすごい大罪であるとか、ものすごく大きな決断だったとか、それを非難するような視線が映画にないですよね。それに私はとても好感を持ちました。今回ほかに『オールド・ジョイ』と『ミークス・カットオフ』も見たんですが、女性の立ち位置というものに並々ならぬ思い入れを感じます。ちゃんとした観察眼で描かれているなと思いましたね。特に『ミークス・カットオフ』は正にそういう映画ですよね。
降矢 うんうんうんうん。
藤野 男性には話が通じないというか、話を聞いてもらえない女性たち。途中でネイティブ・アメリカンの人が出てきて、彼とは言語が通じないですけど、通じなさ的には別に自分たちの夫も一緒だなっていう。
『リバー・オブ・グラス』のいくつかの謎
降矢 実は藤野さんから事前に『リバー・オブ・グラス』のいくつかの場面に質問がありまして。そのお話をぜひお願いします。
藤野 お父さんの刑事とその同僚の刑事が、二人でリーの家に事情聴取に行った時に、お父さんは事情聴取してはるんやけど、そもそも横でなんか同僚の刑事が、自分の知り合いのサイコパスのクラークについて話してて。なんかバーベキューでいい匂いがどうたらって。
降矢 ヤギの肉を食べてたんだけどみたいな。
藤野 そう、ヤギだと思ったら実はあれは犬だったみたいな(笑)。すごく素敵なお話だけれどもそれは一体どういう。誰?クラークって。クラークってでてきた?って思って。私ボーッとして、見逃してんのかなって思って。
降矢 みなさんもクラークって誰だって分かんなかったって方も多分いっぱいいたと思うんですけど、僕も誰も分かってないっていう。誰なんでしょう(笑)。
藤野 そうですよね。急にあの刑事はなんか知らんけどクラークの話をしてはるだけで。
降矢 あの刑事なんか変なこと喋りがちですよね。
藤野 クラークの話も、どっちかといったらもうちょい詳しく聞きたい話ではあるんですけど。
降矢 そうそう(笑)。僕もなぜこうなったかわかりませんが、ああいう身内間の話で盛り上がっちゃうような、ある種の村感というか閉塞感みたいなことに繋がっているかもしれないし、ただ単にあの刑事がおしゃべり好きだっていう人物設定かもしれない。あるいはそういうアイデアに本当に展開しようとしてたけれども、色々製作状況の関係などでカットされたのか。謎なんですけど、非常に印象には残りますよね。
藤野 そうなんですよ。ちょっとその犬の話もっと聞きたいな、サイコパスクラークの話もっと聞きたいなと。
降矢 なんであの状況でそんな話するのっていうね。絶対ダメですよね(笑)。誘拐事件みたいなことになってる状態なのにそんなサイコパスの話をして。
藤野 そんな話してる場合なんやって(笑)。
降矢 あと、謎のシーンでいうと、モーテルで出会う不気味な男……。
藤野 あ! あのニヤニヤニヤニヤしてる人ね!
降矢 そう、気づいたら部屋の中にいて、一緒にお酒飲んでるし(笑)。
藤野 そうそうそうそう! そう! アレなんなんですかね〜。しかもねあの人なんか自販機の前でね。
降矢 なんかニヤニヤ笑いながら「虫けら」って……。
藤野 怖い怖い。
降矢 あれも何なんですかね。ああいう描写の意味が、僕もちょっと知りたいんですけど。
藤野 いや〜私もわかんなくて。この人は誰。彼がサイコパスクラークですかね(笑)。
降矢 あいつが(笑)。
藤野 でもあの人は男の人の話しか聞いていないですよね。リーの話は聞くけれどもコージーに対しては……。
降矢 めちゃくちゃ冷たいっていうか怖いですもんね。
藤野 ニヤニヤニヤニヤして気色の悪い。変質者にしか思えないんですけど。
降矢 藤野さんから質問いただいた箇所、僕も本当に謎なんです(笑)。
藤野 良かった良かった。すごい大事なことを見逃してるんかなと(笑)。
降矢 色んな語り口の糸口だったり、変なエピソードだったりっていうのが結果盛り込まれてますよね。意図的なのか、結果的になってしまったのか。ただ、やっぱり有機的にあえて繋げてないというか、繋がらない部分もあったりっていうのがこの映画の特徴だし、ひとつの魅力かもしれません。
藤野 魅力だとは思います。
降矢 不思議な感じにはなってますよね。
藤野 あの変質者っぽい人はあったほうがいいですね。
降矢 (笑)。そうですよね。あの人いないといわゆるなシーンにはなってると思っちゃうんですけど、第三者がいることでちょっと異様な感じにはなってるという。
藤野 あと、ポスターでわざわざ絵にもなってるしスチールにもあるシーンが本編にないですよね!?車のボンネットにリーが仰向けになってネコちゃんを抱っこしてて、その前でコージーが歯磨いてる光景。すごくいい光景なのに!本編ではコージーが歯ブラシない、歯ブラシないやんって言って怒ってて、待って、ポスターには歯ブラシあるやんって思いました。でもないんですよね。映画ではね。歯ブラシはないまま。
『リバー・オブ・グラス』
© 1995 COZY PRODUCTIONS
思い出か、惨めさか。“Trav’lin' Light”の歌詞について
藤野 それと最後の“Trav'lin' Light”の歌詞。
降矢 それも、ぜひ。
藤野 最後、高速道路を一人で他の車と一緒に走ってゆくところで、“Trav'lin' Light”て歌がかかりますよね。その歌の歌詞で、「私のことは誰もわからない」。「私とともに私の惨めさだけがそれを知っている」というような字幕が出るんですけど、何回聴いても惨めさという言葉が私の耳には聞こえなくて。「メモリー」じゃないのかなって思って歌詞を調べたんです。そうしたら、やっぱり「メモリー」やって。「メモリー」には惨めさという意味があるのだろうかと思って辞書まで引いたんです。あのシーンには思い出というよりやっぱり惨めさという言葉を入れたほうがとっても合っているんですよね。でも実際はそうは言ってないぞって思って、一体どうしてなのかということをお伺いしました。
降矢 僕はまったく気付かずにいました。そして確かに「メモリー」と歌ってる。思い出だけが知ってる、わかってる。というような歌詞ですね。字幕者にも確認したんですが、なんと権利元から渡されたスクリプトっていうセリフが書かれてる資料には「メモリー」じゃなくて「ミザリー」と歌詞が変えられていたんです。
藤野 私もここまでぴったりじゃなかったら気が付かなかったと思うんです。ぴったりなんだけど、あまりにぴったりすぎて不自然だったんです。もともとある歌で、映画のために作った歌じゃないはずなのにあまりにもぴったりすぎる。どういう歌なんやと。
降矢 字幕者さんが検討した結果、「メモリー」だと肯定的というか、甘くなってしまう。もっと突き放すようなラストがこの映画にはあってるんじゃないかということで「惨めさだけが知ってる」という字幕にしたとのことでした。藤野さんから指摘がなかったら僕は平然とわからないまま配給してました……。
女性が作る物語
降矢 そろそろお時間ですが、最後にご覧になられら三作品で特にお気に入りのものはありますか。
藤野 どれもすごく色が印象的ですよね。この映画はこの色っていうのあるなって思いました。『リバー・オブ・グラス』やったら絶対ブルーだし、『オールド・ジョイ』は緑、『ミークス・カットオフ』は荒れ果てた灰色だったり黄色みたいな荒野の色ですよね。こういう感じでタイトル聞くと色が浮かびます。好みを強いて挙げれば私は『リバー・オブ・グラス』か『ミークス・カットオフ』かな。でも『オールド・ジョイ』も私にとっても衝撃的な映画でした。しょっぱなは、すごいダメな人に思えるんですよ、カートが。
降矢 そうかもしれません(笑)。『オールド・ジョイ』は家庭を持ってるマークと、ずっとぷらぷらしたままでいる旧友のカートが久々に会うってお話なんですけど。
藤野 でもほんとは一人で生きてきているだけで、別に全然ダメじゃないんですよね。ただ彼の望みどおりの友情のかたちを永遠に続けていくことがむずかしくなっている。
降矢 『オールド・ジョイ』と『リバー・オブ・グラス』を無理矢理繋げると、『オールド・ジョイ』のマークの妻が妊娠してることが最初にちょろっと、だけど印象的に出てくる。けれど原作だとこの男の人は独身なんですね。『リバー・オブ・グラス』も最初の夫とか子供たちがただちょろっと出てきて、印象づけさせられる点は同じ。家庭を持つ不安さみたいなものが描かれるのは、二つの映画で性別は違いますが、面白い繋がりかもしれません。
藤野 『リバー・オブ・グラス』のコージーについて言うと、結婚して子供ができるっていうことはこの人が選択したことではないんですよね、多分。もちろん、その時々で合意して結果的には選択してきたんだけども、女性の人生というか、今この時代のアメリカで、普通に生きていくというのはこういうことだという空気に飲まれて、何か気がついたらこうなっていただけであって、多分何ひとつこの人は自分で選択したという実感はないんじゃないかと思うんです。
降矢 なるほど。拳銃を譲り受けた男も、確かにこの拳銃で人生変えられるかもしれないみたいなことを言ってました。もしかしたら女性というか、家庭にとっては子供っていうのがひとつの人生を変える契機になり得るかもしれないと思っていたかもしれない。そして拳銃というものが人生を変える契機となり得たかもしれないと思った。けどならなかった。結局、結婚や拳銃は地獄から逃避行させてくれるものではなかった。
藤野 小説でも漫画でもドラマでも映画でも、あらゆる種類の物語では、女性のゴールというか人生の答えとして結婚と出産があるという構造をとってるものがいまだにとても多いんですよね。けれど別にそんなことはないのであって。その先は必ずあるし別に結婚は何も人生の答えをもたらさないし、出産も答えをもたらさないということがちゃんと描かれてる。
降矢 女性監督ということが関係しているのか、どうなんでしょうか。
藤野 結婚というものが女性の人生の答えであり、子供を産むということもまた答えであるというのはもしかしたら男性が作った物語かもしれないから、今度は女性が何か物語を作ろうと思った時に、その物語は実はしっくりこなかったんだよっていうことを語っていけるのは良いことだと思っています。また、『オールド・ジョイ』だって男の人のずっと語られてこなかった側面それだけで出来ている。それが私には衝撃的だったし、映画を忘れがたいものにしてるんだと思いますね。
『オールド・ジョイ』
© 2005,Lucy is My Darling,LLC.
山崎まどかさんトークショー採録(聞き手:降矢聡)
TALK ABOUT
“WENDY AND LUCY”
ケリー・ライカートとの出会い
降矢 これからトークゲストの山崎まどかさんをお呼びして、いまご覧いただいた『ウェンディ&ルーシー』を中心にお話を伺っていきたいと思います。
降矢 まず最初に、ライカート監督との出会いからお聞かせください。
山崎 出会いはだいぶ前ですが、ジャスティーン・カーランドという女性フォトグラファーがすごく好きで、その人の作品集を買い損ねていたら『オールド・ジョイ』という、写真集と小説が合わさったような本が出版されたんです。この本はアーティストと作家が組んで一冊の本を作るシリーズのひとつなんですね。それを確か15、6年前に取り寄せました。写真の内容的には私の求めてたものとはちょっと違ったんですけど、そこで小説を書いたジョナサン・レイモンドという作家を知りました。
降矢 フォトグラファー目当てで買われたんですね。
山崎 そうですね。それで小説がすごくよかった。もうこれは私しか知らないって気持ちで大事にしてたんですけど、そしたら数年後に『オールド・ジョイ』という映画が出来てました(笑)。
降矢 原作本からまず入られた、と。
山崎 でも『オールド・ジョイ』は日本には来なかったので、当時は見られませんでした。そのあと『ウェンディ&ルーシー』をCSの放送で初めて見たんです。だから『ウェンディ&ルーシー』が初めてのケリー・ライカートですね。
降矢 そのときはケリー・ライカート監督だと認識してご覧になったんですか。
山崎 はい。『ウェンディ&ルーシー』もジョナサン・レイモンドが脚本にクレジットされていたし、映画が完成した時から気になっていて。今回はミシェル・ウィリアムズが主演なので日本に来るかもしれないと思ったんですけど、これもスルーされてしまいましたね。
『ウェンディ&ルーシー』
© 2008 Field Guide Films LLC
女性の放浪者
降矢 その時の印象はどんなものでしたか?
山崎 当時と今回の感想はちょっと違う感じですね。最初見た時、私はまだポートランドに行ったことがなくて、オレゴンっていうのがどういう土地柄かってことはボンヤリとしか知らなかったんですが、今回見て、オレゴンの土地の感じがものすごく映っていることがわかった。
降矢 それは具体的にはどういうところを指すのでしょうか。
山崎 私はポートランドしか行ってないんですけど、あそこはすごくエッジーな街として開けていて、オルタナ・カルチャーが生まれる場所。同時に中西部の入り口でもあるというのが特徴ですね。私が中西部に来たんだなって思ったのが鉄道を見た時だったんですよ。この映画でも鉄道が最初に映って、オレゴンの話だってことが分かるのと同時に、これがホーボーの話だってことが一発でわかるようになっている。あと、アニエス・ヴァルダの『冬の旅』との相似性。ケリー・ライカート本人が意識しているどうか分からないですけども、横移動の感じであるとか撮り方も含めて。なぜ『冬の旅』を喚起したかっていうと、女の人の放浪者の話って他にめったにないんですよ。
降矢 なるほど。それこそケリーさんの映画では思い浮かびますが、他の作品ではあまりないかもしれません。
山崎 そう、女の人の放浪者の映画って少ない。
降矢 うんうん。
山崎 男の人の放浪者の映画のほうがいっぱいあるんですよ。
降矢 そうですね。たしか。
山崎 それはなんでだろうって思った時に、移動の自由っていうものに関する女の人の権利っていうことをものすごく考えました。女性の放浪と危険は切り離せないのに対し、なぜ男の放浪者がすごく自由であるとか孤独であるってことと紐付けられるのか。一種、羨ましいというか。
降矢 確かに男の場合、ワイルドであることが称えられたりしていますね。
山崎 ワイルドな、というか逸脱した存在として描かれる場合、女性だと描き方はちょっと違ってくる。『ウェンディ&ルーシー』の逸脱は一種、落ちてしまったみたいな雰囲気もどうしてもあるんです。細かくは描かれてはないにせよ、身体的な危険などは常に女の人につきまとう。
降矢 『オールド・ジョイ』のときのインタビューで、同じオレゴンでも、山に行くときに男性二人だと『オールド・ジョイ』のような関係性の話に出来る。ただ、これはやっぱり女性だと、もう互いに仲が良いとか仲が悪いとか、友情が壊れる壊れないとかじゃなくて、もっと物理的な危険が迫ってくるみたいなことを言っていたことを思い出します。
移動の権利と自由について
山崎 そこで女性の移動の権利の話に繋がりますね。単なる自由っていうのだけではない。多分何らかの形で普通の生活から脱落した人なんですよね、『ウェンディ&ルーシー』の彼女は。
降矢 そうなんですよね。明らかに。
山崎 彼女はコミュニティを自ら捨て旅立ったっていうのではなくて、コミュニティから脱落して追われた人にも見える。自分が属される場所があるならば、属したいと思っている切ない感じっていうのもすごくある。
降矢 姉夫婦に電話したけど、結局ちゃんと伝えられずになってしまうシーンで一瞬バックヤードみたいなのがフッと出てきます。
山崎 だから犬が最低限の自分の拠り所になっている。家族というような枠組みじゃなくてもひとつの関わり合いで、彼女にとってはかけがえのないもののはず。その彼女が車をなくすってこと、犬をなくすってことがどういうことなのか、そういうところが切実に描かれている。
降矢 なるほど。だから犬は一応庭付きの家を手に入れ、一方彼女はホーボーのように列車に乗る。しかもケリーさんの映画って他のものでもそうだと思うんですけど、最終地点に到達するまで描かない。中継地点とか、なにもない場所が舞台にされている。撮られるべくして撮られた場所なんですね。
スティーブン・ショアと土地の風景
山崎 彼女が女性であることについて殊更描いているわけではないですが、女性放浪者の映画だってことでもう貴重だと思えるんですよ。あと、もうひとつの街の描写の特徴としては、中西部の入り口で、なんにもない街であるということですよね。そういうノーウェア的な場所の撮り方を見たときに、今回はスティーブン・ショアの写真をすごく想起したんです。
降矢 ショアの「Uncommon Places」が家にあったので持ってきたのですが。
山崎 あ、なんかもう超ケリー・ライカートな感じなんですけど。
降矢 超ケリー・ライカート!(笑)
山崎 ケリー・ライカートはスティーブン・ショアにやっぱり非常に大きな影響を受けているみたいです。インタビューでその土地が持っている寂しさであるとか、独特の空気みたいなものをどう伝えるかっていうところでスティーブン・ショアの名前が挙がっている。アメリカで都会じゃないところを撮るっていう話になると、ウィリアム・エグルストンかスティーブン・ショアというカラー写真の先駆者2人の名前が必ずと言っていいほど出てくるんですよね。『ウェンディ&ルーシー』も『オールド・ジョイ』も、ドラマはあってないようなものですが、代わりにショアの写真のような風景が沢山出てきて何かを物語っている。退屈な風景なんだけど、ある種のゴージャスさみたいなものをすごく感じさせる。ただ、あまねく美しくにならないように注意深く撮られている。過酷でギリギリのところに置かれている女の人を切実に見せなきゃいけないし、空き缶を拾ってなんとか凌いでいるホームレスが山ほどいるっていう状況など、それをあんまりに美的に描いてはいけないから。
降矢 なるほど。その通りですね。
山崎 だけどもどの作品にも。やっぱりなんとも言えない魅力がケリー・ライカートの映画にはあるんですよね。『オールド・ジョイ』もそうなんですけど、どこか濡れたような質感みたいなものだったりとか。
『オールド・ジョイ』
© 2005,Lucy is My Darling,LLC.
ミシェル・ウィリアムズとアートフィルムの俳優
降矢 ミシェル・ウィリアムズという俳優についてはどのようにご覧になっていますか?
山崎 『ウェンディ&ルーシー』のヒロインはホームレスだけど、最低限ちゃんときれいにしようとしていて、整備所のトイレを借りて身だしなみする場面とか、あまり他の映画では描かれないそういうディテールがきちんと描かれてる。でもミシェル・ウィリアムズってそれまでのケリー・ライカートの作品からしたら大スターですよね。そんな彼女に2週間髪の毛洗わないでくれとかなんかそういう演出をしていたんですよね。
降矢 そうですね。髪の丁度いいハネ具合。丁度いいって言ったらアレなんですけど……(笑)
山崎 ノーメイクっぽいメイクじゃなくて本当にノーメイクで。色んなことはしないでくれ、みたいな感じで。あとは実際に車で寝泊まりしたって話ですよね。
降矢 直接『ウェンディ&ルーシー』について語ったインタビューではないですが、「アートフィルムで俳優たちは役をそのまま生きなければいけない」とか「請け負うことになる」みたいなことを言っていました。それは全然抽象的な話とかではないんですね。ミシェル・ウィリアムズが壁に「あー」とか言って腰を下ろすあの感じとか。本当に疲れてるなこの人ということが生々しく伝わる。細い脚のね、足首に包帯みたいなのもあったりして痛々しい。
山崎 でも結果的に言うと『ウェンディ&ルーシー』のミシェル・ウィリアムズは魅力的だなって思います。他の映画とはまたちょっと違う。この映画だとほっそりした少年みたいな雰囲気もあって、不思議なんですよ。ミシェル・ウィリアムズはカメレオン俳優というわけではないけれどもすごくコンスタントにいろんな映画に出てますよね。
降矢 今やマーベル俳優。『ヴェノム』にも出ていますしね。
山崎 映画によって違うところはある。けれど彼女が演じる疎外感みたいなものが、説得力がある感じで撮られていて、そういう意味ではすごくハマった作品ですね。あと、犬がいい。
降矢 ルー!
山崎 ケリー・ライカートの飼い犬ですよね。
降矢 そうです、そうです。『ウェンディ&ルーシー』でパルム・ドッグ賞ですからね(笑)。
山崎 パルム・ドッグっていうのはアレですよね、カンヌのいい犬の…。
降矢 素晴らしい演技をした犬に贈られる名誉ある賞です。
山崎 ルーちゃんはまだ生きてるんですかね?
降矢 それが……『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』がルーちゃんに捧げられてるんですよね。
コミュニティから外れた人々
山崎 ああ、そうか……。『オールド・ジョイ』にも出てきて、非常に名演ですよね。たケリー・ライカート監督の映画の特色として、中西部のコミュニティの中でちょっと外れている人たちを描くってとこはあると思います。『オールド・ジョイ』はそういうコミュニティの中に根付こうとしている男と全然それが出来ないっていう男の話で。
降矢 今のお話聞いて、僕は『ウェンディ&ルーシー』で、森で一夜を過ごそうとするシーンでの男も「この街は俺を阻害しやがって」みたいなことをブツブツ言っていたこと思い出しました。彼もまたコミュニティから外れてしまった人でもある。
山崎 ほとんど空虚な街で、だけど街にはコミュニティがあって……でもそこにいられない人達というのをよく描いていますね。それは実話ベースの『ミークス・カットオフ』でもそう……。『ミークス・カットオフ』もあの中心となっているグループは西部の大キャラバンみたいなところから外れた人たちなんですよね。前後が描かれないのでミークという導き手による近道に惹かれて別行動しているように見えるけど、彼らは実のところ集団からの脱落者たちなんです。
降矢 そうそう、近道なんですよね。
山崎 だからミークス対キャラバンって話とか、キャラバン対ネイティブ・アメリカンって話じゃない。もうあそこに出てくる全員がコミュニティから切り離された存在だから。
降矢 それは本当にケリーさんの映画のひとつの重要なモチーフですよね。
山崎 そうですね。久しぶりにジョナサン・レイモンドと組んだ新作の『ファースト・カウ』は、またオレゴンなんですよね。
降矢 そうです。一応西部劇なんですけど、馬じゃなくて牛を描いていて、なんか変というか……(笑)。
山崎 また『ミークス・カットオフ』的な感じなんですかね。やっぱり。
降矢 『ミークス・カットオフ』的なのかな……。でも今までの視点とはまた違った視点の西部劇というのは言えると思います。本来はあったはずの、要するに西部のああいう過酷な状況の中で、どういう風なものを食べていてどういう風に過ごしていたのか、みたいなことをしっかり描いていて。そこに焦点を当てて描いていると僕は思っています。
山崎 私は映画を見ていて、今までどんなちっちゃなことでも……それは貧しい人達とか周辺の人達ってだけじゃなくて、アッパーでも中産階級でも、「ああ、この視点は映画では描かれなかったな」っていうことを描いてある映画がすごく好きなんですよ。ケリー・ライカートの作品を見返しても同じことが言えるかなあと思っています。
降矢 どれだけ夜が暗いものかがよくわかりますよね。
山崎 ライカート、ナチュラルライト(自然光)で撮っていますよね。
降矢 でも新作の『ファースト・カウ』では、昼間に夜シーンを撮る、いわゆる「アメリカの夜」をやっているようです。
山崎 なるほど。『ミークス・カットオフ』も夜のシーンは何も見えなくて、あの時代の西部を旅する人はああいう暗闇の中でみんな生きてたっていうことを強く体感させてくれますよね。『ウェンディ&ルーシー』でも、ウェンディみたいな女の人がどうやって生きているのかとか、具体的に何をして日銭を稼いだりとか、あと警察に捕まったり車が壊れたりしたときにどれだけお金がかかるのとか、どれだけ時間がかかるのとか、そういうことを体感する。もっとエクスプロイテーション映画的に、あるいは感動ポルノ的であったりとか、もっと悲惨に描こうと思えばできちゃうと思いますが、彼女はすごく微妙な形で、伝えてくれてるという。
降矢 前にお話があったその役を生きなきゃいけないっていう話と繋がりますよね。作為的に盛り上げるのではなく、そのように生きてたらそのようになってしまうということを適切な距離感で撮っている。
山崎 そうですね。だから、やっぱり他では見られないものをケリー・ライカートは見せてくれるなって思いました。
降矢 最後にコミュニティの話を聞いてハッと思った箇所にもう一つ言及しておくと、ウィル・パットン演じる修理屋が地元の仲間と仲良く電話してますよね。「惚れちまうぜお前、よく分かってるなあ~」みたいな。でも新参者には冷たい、あの感じはすごくいやらしいなと思って。
山崎 万引を捕まえるアルバイトの男の子っていうのもコミュニティの中では機能する。当たり前だけどこれはルールだからと、いいとか悪いとかじゃなくて彼はルールだからと言ってる。そういうところにミシェル・ウィリアムズのやってるウェンディと相容れない、お互いがわかりあえない背景がある。それはね、もっと露骨に描こうとしたり露悪的に描こうとすれば出来るんですけど、そう描かないのがケリー・ライカートなんですよね。
降矢 普通に街の一部としてそこにたまたま接してしまったというくらいの描き方。
山崎 そう、だから他者と出会う話でもあるんですけど、露骨でもなければ、お説教臭くもないし。やっぱり得難い作品だなと思いました。
降矢 はい、それではここでお時間となります。本日はどうもありがとうございました。
『ウェンディ&ルーシー』
© 2008 Field Guide Films LLC
渡辺進也さん×中西香南子さんトークショー採録(進行:降矢聡)
TALK ABOUT
“MEEK'S CUTOFF”
ケリー・ライカートに惹かれる理由
降矢 本日は『NOBODY』編集長の渡辺進也さんと、川崎市市民ミュージアムの中西香南子さんをお呼びして、『ミークス・カットオフ』のアフタートークをしたいと思います。よろしくお願い致します。
渡辺 雑誌『NOBODY』の編集長をやっています渡辺と申します。今日はよろしくお願いいたします。
中西 川崎市市民ミュージアムの映画部門を担当しております中西と申します。本日はよろしくお願いします。
降矢 まず最初にケリー・ライカート監督作品との出会いからお話いただけますか。
渡辺 今まで日本では滅多に上映される機会がなかった監督ですよね。一方で外国では比較的公開されているんですね。当時、パリに留学していた知り合いが『オールド・ジョイ』を公開時に見ていたんです。彼が帰国してしばらくして、雑談したときにケリー・ライカートの名前が出てきて、そこで知りました。5、6年前くらいだと思います。そのときに『ウェンディ&ルーシー』と『ナイト・スリーパーズ』のDVDがリリースされていたので、その2本を見たのが最初です。
降矢 中西さんはいかがでしょう。
中西 ヨ・ラ・テンゴが音楽をつけていて、ウィル・オールダムが主演している映画があるということを知って、最初はそういった音楽的関心から入って見てみたら、本当に惹きつけられました。
降矢 じゃあ最初は『オールド・ジョイ』?
中西 はい。そこから、その他の監督作を見ていって、どんどん引き込まれていったという感じです。
降矢 渡辺さんは『ウェンディ&ルーシー』や『ナイト・スリーパーズ』を見た時は、どのような印象でしたか。
渡辺 普通にいい映画だなと思ってみました。そしてとても気になる人になりました。
降矢 二つに作品に監督らしさみたいなものは感じられましたか?
渡辺 最初はもう全然違う映画だという印象でした。『ナイト・スリーパーズ』は、それまでインディペンデントの映画を撮ってた人が、規模の大きい作品にジャンプアップをした感じですよね。要はジェシー・アイゼンバーグとダコタ・ファニングが出ていて、いわゆるアイドル映画ではないけど……。
降矢 しかも邦題の副題がダム爆破計画(『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』)ですからね(笑)。
渡辺 ずいぶん大きいテーマを扱っているような印象で。『ウェンディ&ルーシー』の後に見ると、なんだろうこれは?っていう気はしたんです。出ているのは、若い、人気のある俳優ですから爽やかな映画かと思いきや、すごく暗い映画で。何を描きたいと思っている監督なんだろうかっていうのがすごく気になりました。
降矢 混乱というか、自分のなかであまりうまく消化できない映画だったという感じだったんですね。
渡辺 そうです、そうです。それでずっと気になっていたんです。その後に、『ライフ・ゴーズ・オン』を見て、やっとこういうことやりたい人だったんだってことが朧げに見えてきた気がします。
降矢 中西さんは『オールド・ジョイ』は海外から取り寄せて、ご覧になった?
中西 そうですね。DVDを購入して見ました。その後は渡辺さんと一緒で『ウェンディ&ルーシー』がソフト化されていたことに気づいて。全然リアルタイムでは見れていないですね。『ウェンディ&ルーシー』を見て、彼女が捉える風景が、すごい抽象的な感想なんですけれども「やさしいな」と思いました。それは彼女の眼差しだと思うんですけれども、それを求めるように見ていった感じですね。
降矢 中西さんは川崎市市民ミュージアムで女性監督特集を企画されていて、そこでケリー・ライカート監督の特集をしたいと考えていたというお話を聞きました。そのときは、どういうところに惹かれていたのかをお聞きしたいです。
中西 企画をしたいと思ったのは『ミークス・カットオフ』を見た時だったと思います。『ミークス・カットオフ』で捉えられる風景を見た時に、70年代のニュー・トポグラフィックスの写真家たちを彷彿とさせる画面がずっと続いていって、その中で微々たる物語、物語ともいえないような時間が流れていく。ニュー・トポグラフィックスの写真家たちが持っていた眼差しみたいなものを、フェミニスト的に変換して、映画に応用して撮っているんじゃないかな、という新しいビジョンみたいなものを強く感じました。インタビューを読んでいると、特にフェミニスト作家である、ということを自身では公言しないので、そこで括ってしまうのはどうなんだろう?とも思ったのですが、ただ女性が撮った興行的に紹介されづらい作品というのがやっぱりある。『ライフ・ゴーズ・オン』は絶対に公開されると思っていたんですけど、やっぱりされないんだって知った時に、公共文化施設という場で特集を組むことができたらいいのになっていうことを漠然とふんわり、そう考えていました。
『ミークス・カットオフ』
© 2010 by Thunderegg,LLC.
スタンダード・サイズについて
渡辺 いま、中西さんの話を聞いていて思い出したのですが、なんで『ミークス・カットオフ』のスクリーンサイズは、スタンダードなんでしょうか? 結構不思議じゃないですか? 僕は今回初めてスクリーンで見てスタンダードだったんだ、と驚きました。シネマスコープだと思い違いをしてました。
降矢 すごく重要な話だと思います。でもどうなんですかね? 西部劇っていうフォーマットが関係あるんですかね? どう思われました?
渡辺 実際、インタビューでスクリーンサイズについて聞いた人はいて、「ロマンチックな西部劇的にはしたくなかった」って答えてましたね。
降矢 ケリーさん自身が?
渡辺 はい。西部劇のイメージというと、広大なアメリカの西部の風景を広々と横幅広く描かれていて、そこを馬が砂埃をあげて駆けていくようなものですよね。逃走とか追走、略奪とかそういうイメージ。たぶん、そういうのにしたくなかったという。
降矢 なるほど、なるほど。でもまさに、そういう風になっている、様々な西部劇——いわゆるイメージの中の西部劇——とは違うことがさまざま起きる。僕も最初見た時に、いちばん最初から川を渡って、川の渡りをじっくり見せているのもすごいなと思ったんですけど、一個一個、馬車をやって、また戻ってみたいな、またやって、みたいな。はじめ何やっているんだろう? みたいなことを思っちゃうんですけど、でも実際、川を渡った時には、こういう往復を何回もしなくちゃいけないし、服が濡れたりするから乾かすために干すし、洗濯もする。いわゆる西部劇のオープニングにはあんまりふさわしくないけど、実際はそういうことがあるということをまざまざと見せられますよね。
渡辺 それで、先程、中西さんがおっしゃっていた、写真家とかの写真を参考にして画面作りをしているというのにも何か関係あるのかな、と。
中西 そうですね。あと、『ミークス・カットオフ』の登場人物たちは先行きが見えない状況にいるので、シネスコだと見えすぎてしまう。ミシェル・ウィリアムズや女性陣がみんなつけているボンネットも、非常に視界が狭められている印象を受けますよね。
降矢 顔なんかも、あんまりよく見えないですよね。
渡辺 途中までどの人が出ているかわからない。
降矢 出てる人も豪華。ゾーイ・カザンもポール・ダノも、ウィル・パットンも出てるんですけど、誰が誰だか。ゾーイ・カザン出てたんだ、みたいな声もあって(笑)。無理やり西部劇の話とつなげていいのかわからないんですけど、ヒーロー的なキャラ、伝説的な人物もいない。それぞれの顔が消されている印象です。
渡辺 途中までは顔っていうよりは、遠景を歩いているだけで、本当にミシェル・ウィリアムズじゃなくてはいけなかったのか、と思っちゃいますよね(笑)。身体全体が映されていて、引きの絵が中心になっている。
降矢 そうですね。ただひたすら、それこそ馬が躍動するなどが魅力のジャンルのはずなのに、ひたすらスローペースで歩き続ける。で、動物にも水をあげたほうがいいよね、もうちょっと水汲んでくればよかったね、みたいな話をしている。動物の話で思い出しましたけど、制作費で面白話ありましたよね?
牛について
中西 中西:そうですね。『ミークス・カットオフ』の牛とか馬とかの餌代が『オールド・ジョイ』の制作費と同じとのことです。
一同 (笑)
降矢 すごいですよね。
渡辺 お金のかけ方が素晴らしいですね。
降矢 『ミークス・カットオフ』も決してそんなにかかっているというゴージャスなシーンがあるっていう感じの映画ではないと思うんですけど。
中西 ライカート監督は、こんな予算がついて映画が撮れることはもう一生ないかもしれないから、やりたいように撮るっていう気持ちで意気込んだとインタビューで答えていました。
渡辺 エンドロールも見ていると、動物関係の方の人の名前がずらっと並んでいるという。
降矢 なんと(笑)。でも新作の『ファースト・カウ』も牛ですし、人間ではない生き物たちを撮り続けている人と言えるかもしれないですね。
中西 西部劇の話にちょっと戻るんですけれど、ケリーさんは西部劇を撮るんじゃなくて、むしろドキュメンタリーを撮るような気持ちで撮影していた、みたいなことをやはりインタビューの中で話されています。それはやっぱり動物を登場させることによってリアリズムを……。
降矢 制御できない、生でしかないというか。
中西 そうですね。
渡辺 あと、牛はバックできないらしいんですね。要は、牛は後ろ向きに歩けない、っていう。
降矢 (笑)
渡辺 前に進むしかないんですよ。牛が後ろに歩いているところ見たことあります?
降矢 いや、ないです。
渡辺 ないですよね。だから、撮影は前に進んでいくしかない。
一同 (笑)
中西 ケリーさんはインタビューで、牛は戻れないから、そこが大変だった、と。『ミークス・カットオフ』は一週間前に俳優たちが招集されて、牛の扱い方などをしっかりと学んだと言ってました。もちろん世話も自分たちでしなければいけないですしね。
降矢 まさにドキュメンタリーですね。
中西 そこにもお金をかけていたと。
渡辺 映画の作り方自体も面白いですね。
『ミークス・カットオフ』
© 2010 by Thunderegg,LLC.
『GERRY ジェリー』、シャンタル・アケルマン
降矢 あと、ちょっと話題を変えてしまってもいいですかね。ケリー・ライカート監督の映画を出発点として、他の映画のお話にも触れられたらな、と思っていて。なにか想起された映画はありますか?
渡辺 僕は、見た目の印象で申し訳ないんですが、ガス・ヴァン・サントの『GERRY ジェリー』です。
降矢 でも、思いますよね。ひたすら荒野を、ただただひたすら消耗していくっていう。でもガス・ヴァン・サントとケリーさんは知り合いなので。
渡辺 グッチーズ・フリースクールが編集された『USムービー・ホットサンド』に、『ミークス・カットオフ』から後のライカートの撮影監督をつとめているクリストファー・ブローヴェルトがもともとハリス・サヴィデスの下にいた人だと書かれていました。
降矢 やっぱりビジュアル面で想起されたという感じですかね?
渡辺 そうですね。歩いてる。荒野を歩いてるっていう。
降矢 『GERRY ジェリー』ってたしか、ミスったみたいな意味合いでジェリーったという独特の造語でコミュニケーションを取っていましたよね。いや果たしてコミュニケーションが取れているといえるのかどうか、という映画のような気がしていて、『ミークス・カットオフ』と無理やり繋ぐと、この映画もインディアンの言語が通じないとか、あるいはミークが言っていることが本当なのか本当じゃないのか、というところが共通するかもしれません。ケリーさんは、もしかしたら、空間に共存しているんですけれど、どこか話が噛み合わなかったり、意味がわからない、わかりあえない人物が常にいる。
渡辺 全然、心通わせてくれないですよね。
降矢 そうそうそう。通ってるのか通っていないのか。『ライフ・ゴーズ・オン』でもそういう……。
渡辺 僕もいま話を聞いていてそのことを思い浮かべていました。3つ目の牧場の女の子の話とか。
降矢 そうそう。特に三番目が印象的ですが、ローラ・ダーンが弁護士をやってる最初エピソードもミシェル・ウィリアムズが石をもらおうとする二番目もどれもコミュニケーションの映画だと、お話を聞いて思いました。中西さんはありますか?
中西 そうですね。眼差しをフェミニズムに応用する、みたいなことを考えていた時に、思い出したのが、“News From Home”などシャンタル・アケルマンがニューヨークにいる時に撮っていた作品です。それはいろんな実験映画作家たちに出会って触発されて作ったという話を読みましたが、それらを見ていると風景と自分の物語をどういう風に組み合わせて物語を語っていくか、みたいなことをライカート監督は引き継いでいるように感じました。あとは、被写体を等価値で扱うような眼差しを感じることが多くて、ちょっとぼやっとした話で申し訳ないんですけれども、そこを思い出すな、と思いました。
渡辺 女性たちの身振りを丁寧に映し出していくということでも似ている気がしますよね。あと、アケルマンの最後の映画のタイトルは“No Home Movie”ですけど、僕はライカートのどの作品についても、根無し草っていう言葉はよく思い浮かべるんです。どこからやってきたのか分からない人たちがどこかへ行く話。大体、そんな話が多いような気がします。
降矢 なるほど。たしかにデビュー作の『リバー・オブ・グラス』はどこにも行けないけど、今いる場所に根が張ってるわけでもない。
渡辺 すぐ戻って来ちゃいますよね。
降矢 25セント払えなくってUターンしちゃうという映画でしたね。出発点もわからないし、どこにたどり着くのかもわからない、っていう映画かもしれないですね。
渡辺 『ウェンディ&ルーシー』のインタビューで彼女は「セーフティネットのない人を私は描いているんだ」ということを言っていました。そういう意味では、保障がない人たちがなんの保障もないまま移動する映画が多いような気がします。
降矢 まさにその通りですね。
渡辺 『ミークス・カットオフ』の終わり方も、どこへ行くのか?というモヤモヤした感じがある。
降矢 途中から始まり、途中で終わってる感じですよね。まさにここでしか終われない、とも言えるし、ここで終わるんだっていう感じもありますよね。
渡辺 最後の方になって、みんなでこれからどうしようと話し合う場面がありますよね。でも、あの人たちにとって、あの段階でどれくらいの選択肢が残されているのかと言ったら、ないんじゃないか、とも思ってしまう。
降矢 なるほど。それが、セーフティーネットのなさかもしれない。
渡辺 そう。すごく無防備な状態に登場人物たちが置かれていることが強く印象付けられます。
降矢 早いものでもうお時間となってしまいました。今日はご来場、どうもありがとうございました。みなさんが盛り上げてくれると、もしかしたら新作の『ファースト・カウ』の日本公開も……。
中西 実はそれを言いたかったんです。来年は丑年です
一同 (笑)
降矢
素晴らしい映画なので、どこか配給会社さんがやってくれることを期待しましょう。ありがとうございました。
(※日本公開は無事に決まった模様。2021年8月現在、公開時期は不明)